じいちゃんの死・残された家族・気持ちの整理・そして懺悔

じいちゃんの死の看取り、母・祖母、気持ちの整理

 

私の母方の祖父が亡くなりました。

小学3年から高校卒業まで祖父の家で生活した私にとって、とても世話になった、大切な存在です。

今回普段のクルマ関係とは関係が無いですが、この時あった事、自分の気持ち、約5日間程ですが昔の家族の形に戻って過ごした個人的に貴重な体験を記録として残しておきたいと思います。

またこれは私の懺悔でもあり、これからの心持ちや自分の在り方を忘れない為の記録。

もし、これを読まれている方でおじいさん、おばあさんがご健在の方、家族と疎遠になっている方の「これからについて」なにか引っ掛かる部分でもあれば幸いです。

 

じいちゃん危篤から新潟に戻るまでのタイムライン

 

2021年6月1日 21:00

娘と床に付き寝てしまう

 

2021年6月1日 23:46

母からのLINE 「じいちゃん危篤」

 

2021年6月2日 00:30頃

奥さんに起こされてLINEに気付く

 

2021年6月2日 01:20頃

自宅から兵庫に向けて出発

 

 

2021年6月2日 10:30頃

実家に到着

 

 

2021年6月2日 12:30頃

じいちゃん息をしなくなる

 

2021年6月2日 13:20頃

医者による死亡確認

 

2021年6月2日 14:00頃

じいちゃんをキレイにする

 

2021年6月2日 15:00~16:00頃

葬儀屋と簡単な打ち合わせ 弟と病院に死亡診断書を受け取りに行く

じいちゃんを仏間に移動して布団に寝かせる(ドライアイスをお腹に載せる)

 

 

2021年6月2日

葬儀の大方の日程が決まる、じいちゃんの希望通り家族葬、家ではなく葬儀場で行う、喪主は私。

通夜4日・葬式5日に。

 

2021年6月3日

遺体を棺の中に納める「納棺」を実施。

親族数人で納棺を行う。

5人家族で過ごす最後の夜。

 

2021年6月4日

通夜当日。出棺、出棺時のお見送りして頂いたご近所の方への挨拶。

通夜式後、親族とじいちゃんの昔話で花を咲かせて偲ぶ。

葬儀場に弟と宿泊。じいちゃんと過ごす最後の夜。

 

2021年6月5日

葬儀当日。

葬式後、火葬場で火入れ、一度葬儀場に戻り食事、骨拾い、お骨を持って寺参りへ、初七日法要

解散

 

2021年6月6日

弟が自宅へ出発。

香典の確認や、お返しの選択を行う。

 

2021年6月7日

朝食後、しばらくしてから私も新潟へ向け出発

 

今回の祖父危篤から、葬儀、新潟の自宅に出発するまでの大まかなタイムラインです。

 

ではじいちゃんと過ごした最後の時間の記録と、その時に感じた事、気持ちの移り変わり、自分自身の気持ちの整理に付いて書いていきます。

 

じいちゃんと過ごした最後の記録

 

新潟の自宅を出発して約9時間、実家のある兵庫の片田舎に到着した。

いつもならもっと疲れているはずだが、逸る気持ちと、去年購入したプジョー・3008のシートが僕の体に相当合っているのだろう。

長くても3時間運転していると、腰とおしりがだるくなって座っていられなくなり、休憩込みで帰省には10時間かかるのが普通だった。

それが今回は15分程の仮眠も入れて9時間弱で到着。

この1時間の差が非常に大きい結果となった。3008にもありがとうと言いたい。

 

9時間程の運転を経て、実家に到着。

家の前に訪問看護師のクルマが停まっている。

何時も僕が帰省した時に駐車スペースとして使用させて貰っている隣の家の敷地には、新型のジムニーが停まっていた。ナンバープレートから愛知に住む弟のものだとすぐに分かる。

ジムニーは色々カスタムされている。「乗り換えたんだ」と能天気に考えながら、玄関から家の中に入る。

玄関で靴を脱ぎ、引き戸を開けるとすぐそこが居間になっているが、まず飛び込んできたのは弟の顏、その真っ赤な目をした顏を見て事態は深刻で現実だとやっと認識した。

僕はどこかでじいちゃんが本当に死んでしまうなんて思っていなかったんだ。今までも何度か深刻な病気になった事があったが、強い精神力と体力で乗り越えてきた人だ。

どこかでそう思っていた。

なんの根拠もない変な希望はすぐに消し飛ぶ。

 

じいちゃんが死ぬ。

 

何時からこの状態なのか分からない、母を含めた3人の娘、要は僕のおばさん2人も今まで見た事ない程疲弊した顏をしている。

周囲を確認すると仏間に布団が2組敷いてある。

「お疲れ」 久しぶり(4・5年ぶりか?)に会った弟が僕に声をかける。

ベッドに近寄ると看護師が丁度注射をしているところだった。打ちながら「この薬は弱いので効くかどうか分からないですが」と言っている。

僕はどういう状態なのかまだしっかりと把握出来ていなかったが、じいちゃんの顏を見る、入れ歯が入っていないこともあってかなり痩せこけ、意識がある様には見えない。

息が少し荒い、呼吸が苦しくなっているとは聞いていた。

しかし、弟はなんであんな風にじいちゃんの足を持ってる?

 

じいちゃんと僕の今まで

 

僕とじいちゃんの話をするには少し昔話が必要だ。

じいちゃんには娘が3人いる。

その次女が僕の母。

母は僕が小学2年の終わり頃に離婚。小学3年になる前にじいちゃんの家に母・僕・弟の3人で転がり込んだ。

今でこそ離婚と聞いても珍しい感じはないが、約30年前の当時では世間体から考えてもまだまだ周りの目は厳しかっただろう。

 

僕らが世話になり始めた時には、じいちゃんは定年退職してしばらくしており、ばぁちゃんと農業をしていた。

生活費や学費の為に仕事に就いた母の代わりになり、僕らを世話してくれたじいちゃんとばぁちゃん。

普通、一緒に生活していると怒られそうなものだが、僕も弟もこっ酷くじいちゃんに怒られた記憶が無い。

葬儀の時に娘3人にも怒られた記憶があるか?と弟が聞いていたが皆、口を揃えて記憶が無いと言っていた。

 

敢えて言うなら洗濯物を取り込んでいない事を何時も注意されていたなぁ。

僕たちの部屋とベランダが2階にあり、ベランダの下から「おーーい〇〇、洗濯もん入れとけよー」とよく言われたものだ。

考えるとそれも、洗濯物の処理をやっていない事で母や祖母に怒られる僕たちを見たくなかったのだろう。

 

印象的なのが凄く我慢強い人だったという事だ。

尿道結石で尿道から石が出てくる激痛、農作業中の大けがにも静かに耐えるような人。

 

他にもある。

 

じいちゃんは大らかな人で、いつも笑っていた。

写真に写る時、動画を録る時もカメラに気付くと笑ったり、面白い表情をくれる。サービス精神の旺盛な人。

 

僕が一緒に住み始めた時にはすでに60を過ぎていたのだが、山で野兎を手で捕まえて帰ってきた記憶は今でも鮮明に思い出す。

運動能力が高く、足がとても速い人だった。

 

歌も上手かった。

伸びのある声で、演歌や民謡を歌っていた。

後で、地味に凄いと思ったのはお経。音程の分かり辛いお経をいつもじいちゃんが先導で読んでいた。僕も夏帰った時は一緒に合わせて読んでいたがそれももう出来ないんだなぁ。

弟の結婚式でも歌ってた。最後に替え歌にして「ひ孫を連れてこいよー」と周りを笑わせていた。

 

一緒に風呂に入りながら九九を教えてくれた。

キャッチボールをしてくれた。竹で弓を作ってくれた。

正月は餅つきをした。何時ももち米が纏まるまでの最初の「小突き」はじいちゃんの役目だった。

山や田んぼで一緒に仕事をした。役立っていないだろうに「ようやった、おおきに」と言ってくれた。

軽トラの荷台に僕らを乗せて蛇行運転して楽しませてくれた(時効)  後で怒られてた。

 

僕が中学校に上がった頃から少しずつ関係も変化する。

少しずつじいちゃんとの時間は減るが、アホで好き勝手する僕をじいちゃんはやはり暖かく見守ってくれていた。

その有難さ、大きさ、居心地の良さに気付かず、外ばかりに目を向けるようになる自分。

 

高校に入り、息苦しさを感じていた僕は実家に居るのが嫌になっていた。

本当に情けないが、入れ歯だったじいちゃんの食べる音が気になってご飯を一緒に食べるのも嫌になっていた。

将来の事も少し考えたフリをしているだけ。

 

大学は愛知の大学を選んだ。

当時も全く何も考えていないわけではなかったが、なんと思慮の浅いことだったか。

父が居ない分頑張って働いた母の給料は僕の学費や仕送りに消えていく。

その間の生活は田んぼで出来た米、ばぁちゃんの畑の野菜、じいちゃんの年金で賄われていたのだ。

これを書きながらトコトン自分が恥ずかしくなる。

 

しかしまだある。

愛知でそのまま就職、同じ大学で新潟出身の奥さんと結婚した。

30歳になる直前に、新潟に移住することにした。

それは家庭的な理由を考慮してだが、僕としては奥さんにとってより良い環境にという思いが強かった。

親が離婚した事は非常に大きな出来事で、自分の子供に同じ思いは絶対にさせないという覚悟は大きかったのもある。

離婚により親に対して思わない時期が無かったわけではないが、今はとにかく感謝しかない。

満足に大学に行かせてくれ、奨学金返済の必要も無いようにしてくれたのだ。

その陰にもじいちゃん・ばぁちゃんが居た。

 

新潟に行くと決めた時、既に色々決めてから母親に報告した。

母は反対した。

でも僕は押し通した。それが良いと決めつけていたから。

じいちゃん・ばぁちゃんには母から報告して貰った。

愛知から新潟に出発する時、母とじいちゃん、ばぁちゃんがわざわざ兵庫から見送りに来た。

僕はこの時に多分だけど「いつか家を継いでくれるんじゃないか?」と密かに期待していたじいちゃんの気持ちも裏切っていたに違いないんだ。

ばぁちゃんは何度か「帰ってきてくれたら」と言っていたが、じいちゃんからは一言もそれを聞いた事は無い。

 

世話になった人をどれだけ傷つけて来たのか。

どれだけ大事なものを無くしてきたのか。

 

じいちゃんとの別れ

 

「じいちゃんまだ聞こえてるから早く声かけてあげて」

誰がそういったのか分からないが、言われるまま僕はじいちゃんの枕元に近づいた。

言葉が正しいのか分からないが、どこか、これが現実なのか受け入れられないまま。

「じいちゃん、〇〇やで!」と声を出すとともに涙が溢れてきた。

まだ心のどこかで「本当に死んでしまうのか?いや持ちこたえるかも」という気持ちが拭いきれていない。

 

声をかけた瞬間に今まで虚ろな目をしていたじいちゃんの目に光が点いたようになり、一瞬ではあるが明らかに僕を認識してくれた。そして短くしっかりと「おぉ」と、言ってくれた。

僕には「おぉ」の後に「〇〇よう来てくれたなぁ、しんどかったやろ」と聞こえた気がした。

 

見守る家族が「あぁ良かった、じいちゃん分かったなぁ、ずっと〇〇の事待ってたもんなぁ」と泣いた。

僕がどこか現実ではない気持ちで実家に向かっている間も、じいちゃんの看病をしてくれていた母とおばさん達。

あとで聞くと丸三日程交代しつつ看病していた。

普通老衰による天寿全うのイメージは静かに息が弱くなっていくイメージだが、じいちゃんの場合は違った。

 

体調が悪くなった時に行った点滴で体がよりしんどくなり、特に足のダルさを訴えていたそうだ。

足がだるい時、妙に足を伸ばしたくなることが僕にもある。

じいちゃんはおそらくその何十倍ものダルさと戦っていたのだろう。

なのでうなされながら突然足や手を振り上げる。

弟がじいちゃんの足を持っていた理由だ。

 

正直こんなにも、じいちゃんがしんどくなる前に教えて欲しかった、という気持ちもあったが、元気になったりもしていたらしいので判断が難しかったのも分かる。

 

僕を一瞬認識してからはまた苦しみ、意識がしっかりとすることはなかった。

薬が効いて来たのか、少し呼吸が楽そうになる。でもまた「あぁー」と言いながら苦しそうに足や手を振り上げる。

これらが何回か続く。ここ数日まともに飲んだり食べたりが出来ていないじいちゃんの口の中は、カラカラになっていた。

静かになっても常に苦しそう。

僕が到着して1時間半程経った12時頃とても落ち着いてきたように見えた。

でもこれが最期へのカウントダウンの開始だった。

さっきまで繰り返し上がっていた足や手が動かなくなった。

落ち着いたというより、息をする回数が少なくなった?と僕が感じた時に、長女のおばさんが叫ぶ「あぁ、もう息が出来ないんや!苦しいなぁ」

じいちゃんの頬に両手を添えながら、すがりつく。

元看護師でもある三女のおばさんが僕と弟にも「声をかけなさい」とうながした。

最期の瞬間まで聴力は残っていると言われているらしく、訪問看護の方も同じことを言っていた。

 

弟がじいちゃんの手を握り「じいちゃん、ありがとう」と泣きながら叫ぶ。

 

僕はじいちゃんの額に自分の額を付けた。

自分でもなんでこうしたか分からないが、少しでも念みたいなものが届けばと思ったのかもしれない。

でも出てきたのは

「じいちゃん、ごめんなさい」

「じいちゃん、ホンマにごめん」だった。

ずっとどこかで後悔し続けてきていた過去の自分の行いに対して本能的に出てきたのだ。

それを聞いておばさんが「最後なんやから、ありがとうって言いなさい!」と泣きながら僕の肩を叩く。(おばさんには僕の気持ちなんて見透かされていたのだろう)

僕はハッとして「じいちゃん!ありがとう!ありがとう!」と叫んだ。

 

僕はもう少しで、また1つ後悔を重ねる所だった。

天国に行こうとしているじいちゃんに愚かな孫がまた心配になる言葉で送ろうとしてしまったのだ。

 

そこからどんどん呼吸がゆっくりになる。

のど仏が必死で息をしようとしている様にも見える。

じいちゃんはまだ生きたいんじゃないのか?

でもどうすることも出来ない。

病院から退院することを望んだじいちゃん。

最期に一人で病院で死ぬのは嫌だと言っていたらしい。

周りには自分の娘3人、祖母、弟と僕が居た。

1人じゃない、皆いる。5月の末に96の誕生日を迎えたじいちゃん。

少しずつ終わりが近づく、その瞬間が来てしまう。終わって欲しくない、でもこれ以上苦しむ姿も見たくない。

そしてついにのど仏が動かなくなってしまった。じいちゃんの息が止まった。

大正14年に生まれて昭和、平成、令和と生きてきた96歳のじいちゃんの人生が終わりを迎えた。

 

じいちゃんにエンゼルケア(死化粧)をする

 

注射をしてから、一度戻っていた訪問看護師にじいちゃんが息を引き取ったと母が伝える。

ここからは葬儀を行うためにすべき準備で忙しくなる。

医者による、死亡診断書の作成とその受け取り。

じいちゃんの死亡時刻は6月2日13:20になった。

「おくりびと」という映画があったが、じいちゃんも体をキレイにする。

 

じいちゃんの場合は訪問看護師の方にやって頂いた。(その病院では1回1万円だった)

用意したのが、お化粧道具と、じいちゃんに最後に着せる服。

まず、乾燥を抑えるクリームをたっぷりとじいちゃんの体に塗りこむ。

服を脱がされたじいちゃんの皮膚は物凄く薄くて、少し引っ張ると破れてしまいそうだ。

タルンタルンの皮膚にクリームを塗ったら、お尻の穴から便が漏れないように詰め物がされる。

皆、各々じいちゃんに声をかけながらキレイにしていく。

死化粧は死後時間が経過すると肌の色が悪くなるので行うようだ。

目を閉じたじいちゃんは、まるで眠っているかのように静かにされるがまま。

「コソバいいがよー(くすぐったいの意味)」とか言って起きないかな?と期待している自分がいる。

 

お化粧が終わったじいちゃんは少し凛々しくなった。

以前癌を患った時に、薬の副作用で顔が丸くなったのだが、まるでその前に近づいたような男前だった時の顏だ。

お見合いで、ばぁちゃんが一瞬で惚れるのも納得(笑)

キレイになったじいちゃんを仏間に敷いた布団に移動させる。

まだ死後硬直は始まっていないが、凄く重く感じた。じいちゃんの体重は40kgを切っていたが、脱力しているとこんなにも感じ方が違うんだな。

 

葬儀の日程を決める

 

葬儀屋が来た。

必要な書類に関する事や、大まかな日程を立てる。

死亡診断書が無いと、役場で火葬の許可証が下りないらしい。

その料金に3万円。普段現金を持っていない僕に出せるわけも無く、弟が立て替えてくれた。弟は事業をやっている、自分だけの小さい会社だが頑張って色々人脈を作っているらしい。

またこの段階で喪主も決めていく。

今回喪主は僕がやると自分から言った。3日間看病していた母たちに少しでも休んで欲しかった。

 

喪主と言っても今回はそんなに大変では無い。

じいちゃんの希望で家族葬にすることになっていた。

本当であれば娘夫婦まで、と言うかなり小さい規模の予定だったが、僕含めて孫は皆じいちゃんが大好きだったので、孫も来てもらう事にした。

 

じいちゃんの家に家族が揃う、納棺

 

じいちゃんの家に僕と弟が単独で来たので、久しぶりに家族が揃った。

じいちゃんは死んでしまったわけだが、僕はコロナの前は毎年2・3回は帰ってきていたし、弟にも家族がいるので以前暮らしていた顏ぶれだけが揃うという事は20年ぶり位かも?しれない。

6月3日が友引だったのもあって通夜までに1日空いたのは良かった。

じいちゃんとゆっくりお別れできたし、何より母や祖母も少し休めた。

僕は自分の出来る範囲で家事をし、好きな料理を作るようにした。皆が食べれてばぁちゃんの体にもなるべく負担にならないものだ。

今回は滞在中にパスタ、野菜炒め、肉じゃがを作った。久しぶりに料理をしたが、ばぁちゃんが喜んで食べてくれた。

弟がホットケーキを作ってくれたのだが、これが抜群に美味かった。

さっくりとふんわりともっちりが全部詰まったスペシャルなホットケーキだ。

 

久しぶりに弟と決して近所とは言えない距離のホームセンターに買い物に行ったのも良い思い出になった。

2人で買い物なんて何年ぶりだろう。これも僕は本当に嬉しかった。

久しぶりでもぎこちなさは全くない。

自分でいうのもあれだが弟はとても良いヤツだ。

自分で事業をしている事は僕にとっては未知で不安な事も多いが、頑張ってほしいし誇りだ。刺激を受ける存在が身近にいてくれるのは嬉しい。

カスタムジムニーもそこそこな金額だったようだが、ローン組めないので一括とのこと。「スゲーなぁ」というと「安定と真逆の生活やで?」と言い二人で笑った。

 

この日はじいちゃんを寝かせていた布団から、棺に納める「納棺」という儀式をした。

この時長女のおばさんとその子ども、僕から見た従妹も来てくれた。

皆じいちゃんが好きだ。

この従妹二人は比較的近くに住んでいる事もあって、僕より頻繁に実家に来ている。

従妹の年が近い事もあり、従妹同士も割と仲が良い。横になるじいちゃんの顏を見て静かに泣いていた。

 

明日にはじいちゃんが家から出ていく。

喪主なので、出棺の際に見送りに来る近所の方に挨拶をしなくてはならない。

 

じいちゃんの通夜当日と遺影で一悶着

 

6月4日は通夜だ。

天気予報の通り、雨がしとしと庭の木々を濡らす。

この日葬儀屋に依頼していた遺影が出来上がってきた。

写真は弟の結婚式の時の写真を選んで遺影用にしてもらった。

その出来上がりサンプル写真が酷かった。

結婚式なのでじいちゃんは黒いスーツを着ていたのだが、切りぬいた時に色調まで補正しているのか、折り紙を張り付けたように浮いている。

また白のネクタイを黒に変更しているのだが、これもただ切り取って貼りつけただけの素人感満載。

 

これに弟が怒った。

僕も出来上がりを確認した時に、違和感を感じたのだがすぐに言葉が出なかった。

弟は「これはアカン」とすぐに訂正を求めた。

葬儀屋はあまり修正を重ねると追加料金がかかるという。そもそも最初の出来が全然ダメなのによく言うな、という感じもするが「それでも良い。最後の遺影なのにこれでは誰も喜ばない」と弟。

わざわざ葬儀屋の事務所まで行って写真加工する会社と話を付けに行った。

おかげでそれなりに納得できる仕上がりになった。

じいちゃんはお洒落も気にする人だったので、安心してくれただろう。

自分で言うのもあれだが弟は頼りになるヤツだ。

 

写真も何とかなり、いよいよ出棺になる。

葬儀場に行くと自由にじいちゃんの顏を見れなくなると思い、最後に額と額を付けた。じいちゃんはめちゃくちゃ冷たかった。

あと、棺にドライアイスで発生したガスが充満していたので少し酸っぱい匂いと息苦しさでムセた。別れが惜しくても棺に顏を入れるのは良くない事が分かった。

出棺するためにじいちゃんの棺を皆で持って表に出ると、結構沢山の人が居た。

さっきまで降っていた雨はいつの間にか止んでいた。

 

僕はじいちゃんが生前お世話になった事へのお礼、残された母・祖母へのご指導・ご鞭撻を伝えた。

とにかくじいちゃんに恥をかかせない事を意識していた。

じいちゃん、満足してくれたかな?耳が遠かったから「ちゃんと挨拶しとんるんか?全然聞こえんがよ」って言ってたかも(^_^;)

 

通夜では三女のおばさんの子ども達が初めて死んだじいちゃんと対面した。

この二人もじいちゃんが大好きだったので、号泣していた。その姿を見て僕もまた泣いてしまった。

三女のおばさんの旦那さんと、息子でじいちゃんのDVDを作ってくれた。それをパソコンのモニターで流す。

皆、昔のじいちゃんや最近のじいちゃんの生前の様子を見て思いを馳せる。

特に、僕の母がスマホで撮影していた動画が良かった。

じいちゃんが95歳の時に撮影されたその動画は、皆へのメッセージになっていた。

「おーい元気かぁ。わし95歳。何とか元気でやっとる。何時でも来いよ。待っとるぞー」

明るく話すじいちゃんのメッセージで皆が泣いていた。本当に皆に愛されていたじいちゃんだった。

 

通夜式後は、皆でじいちゃんの思い出話をして盛り上がった。

皆それぞれにじいちゃんとのエピソードがある。僕は改めてじいちゃんの大きさに気付かされた。

 

晴れ男のじいちゃんのおかげか、午前中の雨が嘘のようにキレイな夕焼けだった。

 

当日の空

 

その日は葬儀場に僕と弟が泊まった。

じいちゃんの入った棺と一緒の部屋で、お香の番をしながら過ごす最後の夜。

明日は葬儀だ。

 

じいちゃんの火葬、お骨拾い、配慮や思いやりについて

 

じいちゃんと最後の夜を過ごし、朝を迎えた。

今日は葬式後、じいちゃんを火葬場に連れていく。

じいちゃんの姿が見れる最後の日、最後の時間。

昨日と同じ顔ぶれが朝早くから葬儀場に集まった。

じいちゃんは自宅で調子が悪くなる直前まで入院していた。その入院中や退院の見舞いの手紙・メッセージカードが実家にはあった。

最後にこれらの手紙をじいちゃんに持たせようと言うことになっていた。

 

坊さんの読経が終わり、じいちゃんの棺に花や食べ物、手紙を入れていく時間になる。

じいちゃんにちゃんと声をかけられる最後の時間だ。

葬儀中はあまり泣いていなかった母が泣いて、花を入れられないでいた。

僕は「これでじいちゃんの顔ちゃんと見れるの最後やから、しっかり見ときよ」と声をかけた。

母は泣きながら小さくうなずく。

 

母はどんな思いだったのだろう。

30年前に実家に戻った母、その時じいちゃんはどんな言葉を母にかけたのか。

僕たちが家を出た後、じいちゃんとばぁちゃんの世話をして過ごした母。

2人の世話の為に会社も定年前に早期退職した。

母なりの恩返しなのだろうと思った。僕たちの事を一番に考え、僕たちがそれぞれの家庭を持った後はじいちゃんとばぁちゃんを一番に考えた母。

じいちゃんは本当に亡くなる直前まで大きな介護を必要としなかった。

介護らしい介護、世話らしい世話は今回の最後の3日間だけだったそうだ。

三女のおばさんも「じいちゃんは最後に世話らしい世話をさせてくれた」言っていたらしい。

自分の事より周りの事、人に迷惑をかけない様に生きてきた人だった。

そのじいちゃんが最後苦しんだ3日間で母に「○○(この体の苦しさを)何とかしてくれー」と叫んだそうだ。

人が死ぬという事はここまで苦しいのだ、今まで泣き言を言わなかったじいちゃんが叫ぶほどに。

しかし、老いと今までの闘病の数々でボロボロになった体に出来ることはもう無かった。

母は苦しむじいちゃんに何も出来ない、ただ側に居ることしか出来ない自分にどれだけの無力感を感じていたのだろうか。

母が用意した食事をしっかりとした箸捌きで食べていたじいちゃん、最後は飲み込む力が無くなってご飯が食べられなくなった。

この苦しい最後の3日がどれだけ長く感じたのか。僕には想像もつかない。

 

じいちゃんの棺には、花、手紙、服、お菓子、果物がぎっしり詰められた。

最後に食べられなかった分、向こうで沢山食べて欲しい。

仏教では死んでからもお努めがあるらしい、49日法要と言うのがその最後の日なんだそうだ。

「もう疲れたがよ」とか言いながら歩いてるのかな。

それともしんどい体から抜け出して、昔の軽い体で余裕の走りを見せているのかもしれない。

 

じいちゃんを火葬場に連れて行く。

参加者はじいちゃんの棺とバスで、僕はバスだと疲れてしまうばぁちゃんを自分のクルマに乗せて向かった。

片道30分かかり、これを2往復しなくてはいけない。

合計2時間の移動に94歳のばぁちゃんは耐えてくれた。

しんどいからやめとくか?という声にも「いや、大丈夫や、行く」と力強く返事した。70年連れ添った夫の最後をしっかりと見届けた。

 

あまり、言いたい事ではないが骨拾いの時に衝撃というか悲しい事があった。

火葬され骨になったじいちゃん。

皆、骨になったじいちゃんを確認する。

係りの男が骨の部位に付いて説明をし始めた。

次の瞬間「ザクッ」と勢いよくじいちゃんの骨を割った。場の空気が変わった。男は表情1つ変えずに「ここは肋骨です」とか説明している。

だれもお前の骨の部位の説明など聞きたくない。幾ら仕事とは言え、死者とその遺族に対する配慮が欠け過ぎている。

僕は苛立ちを抑えていた。それでもくだらない部位説明と骨砕きが続く。

骨壺が小さいので骨を砕くのは理解できる。だが大体の人がお骨拾いの経験など少ないはずだ。

その遺族に向かってせめて「骨壺に入る大きさにさせて頂きます」の一言が言えないのか?

お前にしてみれば数多く見る遺骨の一つなんだろうが、僕たちにしてみればたった一人のじいちゃんだ。

 

「もう少し優しく作業してくれますか」

 

三女のおばさんの長女が目に涙を浮かべながら言った。

おっとりして、優しい性格の彼女はおそらく孫たちのなかで一番じいちゃんが好きだったのではないだろうか。

僕が実家に帰ると、いつも彼女によるじいちゃん、ばぁちゃんの絵や写真、感謝のメッセージの何かしらが増えていた。

 

その彼女が一番に声を上げた。

男は「はぁ」という感じで少し作業の勢いを弱くした。

僕はまた声を出せなかった。

 

骨拾いが終わり、寺に皆で向かう。さらに小さくなったじいちゃんと共に。

仕上げと呼ばれる読経と、坊さんによる話を聞く。

初七日法要も合わせて行ったので全部で3つ位お経を読んだ気がする。

僕もさすがに少し疲れたが、後ろでばぁちゃんがしっかりとお経を読んでいる声が聞こえていた。

 

じいちゃんの葬式が終わった。

 

弟は葬儀の次の日に愛知に帰った。

本当は僕も同じ日に帰るつもりだったが、1日延ばした。

頂いた香典返し等を決める仕事もあったし、何より僕たち2人が同時に居なくなったら母とばぁちゃんがガックリくるかも?と自分なりに配慮した。

しかし、ばぁちゃんは「もう泣かないんや。一緒に苦しい事も楽しい事もさせて貰った。覚悟は出来ていた。満足や」と僕に言った。

 

母にも少し声を掛けた。

じいちゃんは最後しんどかったけど、娘3人と、ばぁちゃん、孫2人に見送られて満足してくれていると思う。

いつも母がおいしいご飯作ってくれて感謝していると2人で言っていたと。

母はまた静かに泣いていた。

死者に対して自分が何が出来ていたか考えると、どうしてもマイナスの事が浮かんでしまう。

そこに固執すると前に進めなくなってしまう。

母に少しでも元気を出して欲しかった。

 

新潟に戻る前日の晩御飯に肉じゃがを作った。これが我ながらかなり美味しく作れたのが満足だ(笑)

母もばぁちゃんも大絶賛してくれた。

今度帰った時も何か作ろう。

 

これから僕が生きていく中でどれだけの人と関わり、どのような関係が築いていけるかは分からない。

でも、人に対して出来る限り誠実でいよう。

全ての人に良い顔は出来ない。でも大切な人にはとことん尽くしたい。出来る事をしたい。そう思う。

そうすることで自分自身も成長出来たら、いつかじいちゃんの様になれるだろうか。

 

半年後ばあちゃんが脳梗塞に

21.11.9(火)

じいちゃんが亡くなってから、比較的元気に過ごしていたばあちゃんが脳梗塞になってしまった。

亡くなってから、約半年経っていた。

母が少し目を離した間に眠るように意識を失い、そのイビキのかきかたに母が異常性を感じたそうだ。

すぐに起こそうと声を掛けるが全く目を離さない為、救急車を手配。

到着した隊員がドクターヘリでの移動を提案。

病院に到着後、カテーテルで血管の詰まりを無くすカテーテルでの処置が行われたが、脳へのダメージが大きく、意識が戻らない。

21.11.30に救急搬送された病院から、地元の病院に移される。

ばぁちゃんともう話す事は出来ないかもしれない。

面会も出来ないので、まだ実家には帰っていないこともあり、実感が湧かない。

ばあちゃんと最後に交わした会話は、少しでも関わりのある方とは持ちつ持たれつで感謝を忘れてはいけないという話だった気がする。

今は、ご飯も自分で食べる事が出来なくなった。

母の作るご飯を、「美味しくご飯が食べられれば幸せや」と言っていた。

母はそのことを思い出すと涙が出ると、泣いて話していた。

 

21.11.30(火)

無事ばあちゃんの移動が終わった。

病院により、看護師の対応に差が大きいようだ。

ペーパーレスの時代に、何枚も書類を書かされたと母が言っていた。

 

じいちゃん、ばぁちゃんの状態が少しでも良くなるようにそっちから念を送って下さい。

 

21.12.3(金)

ばあちゃんが入院したことで母が一人暮らしになった。

ここから心配になるのが、母の病気。

朝晩なるべく電話して、体だけでなく心の健康状態を確認しよう。

母は一人ではない。

 

21.12.7(火)

ばあちゃんが入院している病院で親戚が働いているが、その方の話だとばぁちゃんの意識が良くなってるかも?という事だった。医者も少しコミュニケーションが取れたと言っていたので、母が期待を膨らませてオンライン面会に臨んだが・・・ばぁちゃん目を開けなかった。

少し残念だが体調は悪くないようなので、少しずつでも回復して欲しい。

 

21.3.20(木)

ばあちゃんが午前3:30に亡くなった。

昼までで仕事を切り上げて、兵庫に向かう。

ばぁちゃんお疲れさまでした。

今から会いに行きます。

 

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